今年は’梅雨らしい梅雨’だとニュースで言っていたが、今日も相変わらず雲が空を覆い、雨粒をチョビチョビと小出しに落としつづけている。
雲の上には明るい太陽があることを すっかり忘れてしまいそうなそんな天気の中を、昔からほとんど形を変えることのない、もうすっかり水を吸うようになってしまった傘を開いて、僕は道を歩く。
時折風に乗って斜めに落ちてくる雨粒に関しては もうそれを避ける事を諦め、帰ったらスーツのズボンにアイロンをかけなきゃならないな、と考えながらバス停まで、僕は道を歩く。
時刻表よりだいぶ早く、バスがやってきて僕は一人 それに乗り込む。傘はすっかり水を吸い、だらしなくたたまれる。
何人かのお年寄りが乗っているだけのバスに揺られながら、僕は吊り革につかまり、持ってきた本を開く。
雨粒がたくさん付いた窓ガラスには、落ちてきたばかりの雨粒が次々と打ちつけられている。
本のしおりの部分を開きながら、さて今までどんな話だったかと思い出していると、次はどこどこだというアナウンスが流れ、
運転席の近くのおばあさんが手を伸ばして、ピンクのボタンを押した。
ピー というか、ビー というか、その中間ぐらいの音を立てて、次のバス停で停まります というピンクの明かりがつく。
子供の頃、このボタンをむやみに押したがったものだったなと思いながら、光っているピンクのボタンを見つめる。
窓から見える空は灰色で、目線を下げれば 傘を握って歩く人達が見える。
次のバス停が見えておばあさんは立ち上がろうとする。
しかし、バスはスピードを下げることなく バス停を通り過ぎる。
何人かの目が運転席の方に、そして ボタンを押したおばあさんの方に向けられる。
それでもバスは、雨の空気を引き裂くように進んで行く。
「すいません、運転手さん。」
おばあさんが声を上げる。
「すいません、運転手さん。わたしねぇ、ボタンを押したんですがねぇ。ほら、光ってるでしょ。」
光っているボタンを指差しながら運転手に話すおばあさんの顔は、怒っているどころか むしろ笑っていた。
バックミラー越しに見えた運転手の顔はまだ若く、帽子も新しそうなものだった。
「申し訳ございません。本当に申し訳ありません」
運転手は耳を真っ赤にしながら、バスを左に寄せる。
相変わらず窓ガラスには雨粒が打ちつけられている。
「本当に申し訳ございません。申し訳ないです。」
彼の本当に困り果てた様子を見るおばあさんの顔は、先ほどと同じように笑っていた。
「あはは、いいんですよ。別にいそぐ事はないんですから。ここで結構ですよ。」
そう言うおばあさんの顔は笑っていた。
よっこらしょ と小さく言って立ちあがったおばあさんは小さな折り畳み傘を開き、すまなそうな顔の運転手に軽く頭を下げて降りていった。
再び走り出したバスの窓からおばあさんの方を見る。
窓に貼りついた雨粒の隙間に、おばあさんの花柄の折り畳み傘がゆっくりと開かれるのが、僕にははっきりと見えた。
「別にいそぐ事はないんですから。」
そのおばあさんの言葉がなんだかすごく新鮮だった。
ふと、手にしていた本のページがちっとも進んでいないのに気付く。
僕は開いたのと同じページにしおりを挟み、ゆっくりと本を閉じた。
駅が近くなってきたのか、まだ雨の降る窓の外には忙しそうな人の群れがうねっていた。
「別にいそぐ事はないんですから。」
本を鞄に仕舞ながら、僕は小さな声でそう言ってみた。
傘はまだ濡れてくたびれている。