にじいろめがね


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 楽譜を買いに、御茶ノ水に行った。

 家を出た時には、御茶ノ水まで電車を乗り継いで行こうと思っていたのだけれど、 ”冷たい風の中を歩く”ということも冬にしかできないことだと思うと、 無性に寒く冷たい外を歩きたくなってしまって、僕は御茶ノ水から少し離れた、大江戸線の「春日」の駅で電車を降りてしまった。  生温かい地下と冷たい風の吹く地上を結ぶ階段を登りきった僕の頬に、乾いた風が冷たい。なんだか雪の降りそうな空だ。

後楽園を右手に見ながら白山通りを歩く。相変わらず薄着で家を出てきてしまった僕は、 しくしくする寒さのために、ポケットに両手を突っ込んで、少し猫背になりながら道を歩く。

 水道橋の信号を渡って左に曲がると、そこは外堀通り。下に流れる神田川を見ながら、きれいな歩道を僕はゆっくり歩く。 僕はこの道のこの景色がとても好きで、なんども立ち止まっては、手すり越しに神田川を眺める。

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 ふと足元を見ると、僕の足の下から薄い緑の草がはみ出していた。川を見るのに一生懸命だった僕は、気付かずにその小さな草を踏んでいたようだった。


小さいから踏まれるのさ
弱いから折れないのさ
倒れても もし
その時暇だったら
しばらく空をながめ
また起き上がるのさ



 事故で体が不自由になってしまったある人が、口で筆をくわえて雑草の絵を書き、その横にこんな詩を書いていたのを思いだした。 体が動かなくなってしまったけれど、まだ口で絵が書ける、と彼は考えた。 小さな草に感情移入をした彼は、踏まれて倒れても空を眺めようと考えた。

 僕だったら、どう感じるだろう。

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 ある人は、家から出かける時に雨が降っているのを見ると、濡れるのは嫌だと、苦い顔をする。  ある人は、昨日車を洗車したばかりなのに、と舌打ちする。  でもある人は、お気に入りの傘をさして出かけられる、と思って、にこやかな顔で傘立てに手を伸ばす。  天気みたいな些細な事から、事故や病気のような大きな出来事まで、ものごとは見方やとらえ方によってかなり変わってくるみたいだ。

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 と、そんなことを考えながら、神田川沿いに緩い坂道をのぼって行くと、御茶ノ水の、楽器屋がひしめく通りにたどり着いた。  賑やかな音楽と、「ベース急募。プロ志向。」だとか、「ドラム募集。男女問わず。月一で新宿のスタジオに来れる方。パンク系。」なんていう 紙の貼りついているCD屋の壁を見ながら、楽譜の店を探す。

 店内にはギターやベースを担いだ人達が、楽譜をめくっている。僕は目当ての楽譜を手に取ると、レジに向かった。

 レジのお兄さんは、黄色いサングラスをかけていて、黄色いサングラス越しに僕を見、楽譜の値段を見、値段を打ち込む。 そして僕の出したお金を、黄色いサングラス越しに確認し、楽譜を僕に手渡す。 たぶん彼の見えるもの全ては、黄色がかって見えるのだろう。

 では僕はどうだろう。世の中は何色なんだろう。

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 家の近くの駅に着いた時には、風も冷たく、本当に雪が降りそうな空だった。

 帰る途中に、公園を通る。並んで歩く若い男女や、鎖を解かれてはしゃいでいる犬、 立てた缶にボールを当てて喜んでいる少年や、 膨らんできたジンチョウゲのつぼみを愛でるおばさん。いろんな人が目に入る。  実はみんなそれぞれ色々な色のめがねをかけ、小さな幸せを見過ごしたり、 または見つけ出して膨らませたり、そんなことをしているのかもしれない。

 楽譜の袋を持った左手がとても冷たくなっているのに気付いた僕は、その袋を右手に持ち替えて左手をポケットに入れた。  右手が冷たくなっていく一方で、左手がじんわりと温かくなってくる。

 小さな白いものが落ちてきて、僕の服にとまった。
 それは綿みたいな雪だった。
 冷たくなっていく右手の事なんて、もう僕の頭の中にはなかった。




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