せみのなつ



 夏休みはいつも退屈だった。


 夏休み中に、学校のプールに何回か行かなくてはならなかったのを除けば、小学生の私には特に’予定’と呼べるようなものなど無かったし、夏休みの宿題の日記に書くような特別な事もほとんど無かった。

 いや、敢えて予定と呼ぶとすれば、毎年おばあちゃんの家に家族そろって行くという事が恒例となっていた。
 おじいちゃんもいるのに、なぜかそこは ’おばあちゃんの家’ と呼ばれていた。そこで過ごす何日間かは、退屈な夏休みの中でもとりわけ退屈な日々だった。


 おばあちゃんの家は、いかにも田舎の一軒家といった感じの木造の建物だった。 まわりの家の屋根瓦は皆、灰色か、やわらかそうな黒い色だったが、おばあちゃんの家の屋根瓦だけは夏の空をもっと青くしたような、きついきつい青い色だった。

 僕は、遠くに見えるその青い屋根がだんだん近づいてくるにつれて、なんだか落ち着かない気分になった。

 でも、おばあちゃんの家に入ると、もっと落ち着かない気分になった。

 入り口にある雉の剥製。
 やたらと広い玄関。
 ものすごく高い天井。
 至る所から顔を出している、黒っぽい木の柱の節穴。
 かさかさしている畳の、色褪せた匂い。
 蛇口から出てくる驚くほど冷たい水。
 仏壇の線香の匂い。

 その一つ一つが僕を不安にさせた。
 その一つ一つが僕を威嚇していて、あたかも僕を追い出そうとしているようだった。

 自分の家にいれば、好きな本を読んだり、うんざりするような暑さの中で、野球をしたりもできた。
 でもおばあちゃんの家には本も無かったし、いつもの夏の匂いのする、濃い緑の芝生のある広場も無かった。

 ここにあるのは、山と、そして蝉の声ばかりだった。


■ ■ ■

 いつもは4,5日で帰るのだが、その年はおじいちゃんの具合が悪いとかで、お盆時期から夏休みの終わる直前まで、つまり夏休みの大半をそこで過ごす事になっていた。

 宿題も全部持って行った。
 「朝顔の成長記録」 をつける宿題があったので、朝顔の鉢も持って行った。
 出発前に朝顔にたっぷりと水をやったので、膝に乗せた鉢から水が少しづつ漏れてきて、僕の膝と、車のシートを少し濡らした。


 少し開けた窓から、だんだん湿った森の匂いがしてきた。
 蝉の声が賑やかに、そして強くなってきた。

 ああ、青い屋根が見えてきた。

 僕は少しむずむずして、座席に座りなおした。
 膝の動きと一緒に朝顔の鉢が傾き、どろの混じった水と、少しの土と、土にしがみ付いていた赤い小さなアリが僕の足元に落ちた。


■ ■ ■

 僕は陽の当たる縁側に座って、足をぶらぶらさせながらすいかを食べていた。
 もうとっくにぬるくなってしまったすいかを、ずぶずぶとゆっくり食べた。
 縁側から何メートルか離れた所に、大きな柿の木があった。
 随分と大きな木だった。
 その木は、おじいちゃんが産まれた時にひいじいちゃんが植えたものなんだ、と聞かされていた。
 おじいちゃんと、おばあちゃんと、僕の母親と、毎年やってきて縁側でつまらなそうにしている僕を、この柿の木はずっと見てきたのだ。

 僕は、すいかの種を柿の木まで、勢いよくはきだして飛ばす事に熱中していた。
 しかしそこまで届く事はなく、柿の木と僕とのちょうど真中辺りに、その黒い間抜けな形の種は転がっていた。

 縁側から降りて、乾いた土の上でまだ濡れて光っている種のところまで行った。
 一番遠くまで飛んだ種も、柿の木まであと’おおまた2歩’くらいだな、と思ってかきの木の幹を見た。

 今まであまり気付かなかったが、ここに来ると頭の上の柿の木の枝のいたるところからせみの鳴き声が聞こえた。
 もう、どこから聞こえてくるのか分からない、と感じるほどに。

 ちょうど僕の目の高さのところに、せみの抜け殻があった。
 中にまだ何かが入っていて、しっかりと幹につかまっているかのように、 自分の中身が空に飛び立った事にまだ気づいていないかのように、 抜け殻はそこにしがみ付いていた。
 僕は慎重にそいつをそこから剥がすと、それをじっと見た。

 宇宙のどこかに生き物がいるとすれば、こんなのかもしれない と、僕は抜け殻を手にして思った。
 不器用に生えている短いひげ。
 甲冑のような関節。
 無表情で透明な目。
 透明な目が、宇宙飛行士が頭に被るヘルメットみたいだと思った。

 脱皮する直前ってどんな気持ちなんだろう。
 目まで脱皮するわけだから、目の前はやっぱり少し曇った感じなんだろうか。
 脱皮する前は、やっぱりむずむずするのだろうか。
 この儀式が終われば飛びたてる、という事を知っているのだろうか。

 急に、手に持っていた抜け殻が生きているように感じた。
 それが手の上で、少し動き出したような気がした。
 割れた背中から出ている白い糸のようなものを、急に気味悪く感じた。
 そのつるつるした目が僕を見ている気がした。

 僕はそいつを足元に落した。
 乾き始めたすいかの種の上に、かさっとひっくり返って落ちた。

 薄茶色の腹と、6本の足が恐かった。
 さっきまでそれを手に持っていた事が信じられなかった。
 僕は踵を返して、縁側と、すいかのところに戻った。
 一切れ残ったすいかは、皿の上の赤い汁の上に横たわっていた。


■ ■ ■

 おじいちゃんの具合が大分良くなったとかで、あと何日かで、家に帰ることになっていた。

 ある日、僕が縁側に座っていると、さっきまで寝ていたおじいちゃんが来た。


 「裏に、行ったかい?」

 しわがれた声で僕に言った。

 「裏ってどこ?」


 「裏の、あの、神社だよ。家の裏に行くと石段があるだろう?それを登って行くと、ちょっと開けた所があって、そこには、せみが、たくさんいる。そりゃぁもうたくさんな。」


 なんだか嬉しそうにおじいちゃんは言うと、行っておいで、といいながら寝室に入っていった。


 おかしな話だった。
 毎年ここには来ていたのだし、何もする事のない僕は、去年もこの家のまわりを何遍もまわった筈だった。

 石段なんてなかったのに。

 おじいちゃんはどうかしているんじゃないかと思いながら、僕は裏に回った。


 家の裏はいつものように薄暗く、じめじめしていて、ドクダミがたくさん生えていた。
 僕が進む先を、ハンミョウが一歩先に進んでいた。

 石段は、あった。

 もう何十年も前からあった、とういような佇まいだった。
 湿った石段には苔が生えていて、そのあたりはなんだか水の匂いがした。

 おじいちゃんに言われた通り、僕は石段を上っていった。
 石段といっても、ほんの数段しかなくて、あとは砂利の坂道が続いていた。

 言われた通り、少し登ると開けた場所があり、そこには小くて赤い鳥居があった。
 たぶん、おじいちゃんが言っていた神社とはここのことなんだろうと思った。
 そこにはすごい数のせみがいたと思う。
 音というのは、空気の振動の事なんだ、ということを感じるほどだった。

 ほんの少し登っただけなのに、杉の木に邪魔されて、おばあちゃんの家の青い屋根は見えなかった。


 そこに、一人の少年がいた。
 僕は彼を 「ケンちゃん」 と呼んだ。
 しかし、僕が彼に名前を聞いたという記憶はないし、彼が名乗り出たという記憶もない。
 でも、僕は彼を「ケンちゃん」と呼んでいた。

 年は僕と同じくらいに見えた。
 夏なのに、茶色の長袖のシャツを着ていた。
 彼は杉の木の一本を、じっと見上げていた。
 僕は彼をじっと見た。


 「せみは、好き?」


 彼は突然僕のほう向き、いやに真面目な顔でそう言った。
 僕は突然の事に驚き、そして見かけよりも随分低い、かすれた声に驚いた。


 「ああ、う、うん。」

 思わずそう言ってしまったあとで、この間の、ひっくり返ったせみの抜け殻が頭に浮かんだ。
 せみなんて嫌いだ、と思った。


 「ほら、あれ。ミンミンゼミだ。」

 僕には、どこにそのミンミンゼミがいるのかさっぱり分からなかった。
 二人の上には、杉の林の間からこぼれてくる、細くてもはっきりした光の筋と、ミンミンゼミの投げやりな声が降っていた。

■ ■ ■

 次の日も、僕はそこに行った。
 彼はその日も、昨日と同じように茶色の長袖のシャツを着て杉の木を見上げていた。

 もうその頃は8月も終わりが近くなっていたし、朝夕はかなり涼しくなってしまっていて、空も真夏の空に比べると白っぽく、随分と高い感じがした。

 その日は、彼と陽のあたる万年塀に寄りかかって石段に座っていた。
 じめじめした石段も、真昼の間の短い時間だけは太陽を浴びていた。
 その傍にある万年塀には、もっと長い時間陽があたるのか、寄りかかった薄いシャツを通して、温かさが背中にしみ込んできていた。

 縁側ですいかの種を飛ばした時には、鳴いているのはアブラゼミばかりだったが、いまはもう「ミーンミンミン」という声と、ツクツクボウシの意味ありげな声ばかりが耳についた。


「ツクツクボウシが鳴くと、もう、夏は終わりになるんだ。」

 ふーん、と僕は言った。

 足元には一匹のアブラゼミがひっくり返っていて、それを赤いアリたちが取り囲んでいた。

 石段では、持ち主のない茶色や透明の羽根が、少しひんやりした秋の風に遊ばれていて、裏になったり、表になったりしていた。

■ ■ ■

 家に帰ると、おじいちゃんが僕の朝顔に水をやっていた。


 「裏に行ってきたのか?」

 僕は黙って頷いた。
 おじいちゃんは少し笑った。


「どうだったい?」

「ケンちゃんと遊んだ。」

 嬉しそうで、それでいてなんだか少し寂しそうな顔でおじいちゃんは言った。


 「そうか、ケンちゃんか。子供の頃、俺もよく遊んだもんだ。」


 僕は、なんだかよく分からないまま、黙って立っていた。
 庭のかきの木では、ツクツクボウシがさかんに鳴いていた。


「ツクツクボウシが鳴くと、もう、夏は終わりになるんだ。」


 おじいちゃんはそう言って朝顔を見ていた。

 僕は、同じ事をどこかで聞いた、と思いながら縁側で靴を脱ぎ、家に入った。


■ ■ ■

 次の日、僕たちは自分の家に帰った。
 家に帰るとすぐに、朝顔は枯れてしまった。

 そして、家に帰って3日たってから、おじちゃんが死んだと言う事を聞いた。
 2学期の始業式の次の日だった。
 その日はとても晴れていて、僕の家の近所ではまだ、アブラゼミが鳴いていた。


■ ■ ■

 おじちゃんのお葬式の為に、また青い屋根のおばあちゃんの家に行った。
 今度は本当に’おばあちゃんの家’なんだな、と思った。

 なんだか青い屋根が近づいてきても、いつものように落ち着かない気持ちにはならなかった。
 少し家が小さく見えた。

 僕はおばあちゃんの家に着くとすぐ、裏にまわった。
 ドクダミの葉を踏みつけ、ハンミョウより先に進んだ。

 でも、石段はどこにもなかった。
 いくらさがしても、それらしきものすらなかった。
 獣道のようなものも、草を踏み分けた跡もなかった。
 そこにあるのは、僕の知っている、去年までの夏の景色だった。


■ ■ ■

 今年もまた、アブラゼミたちが地面に落ち、ツクツクボウシが鳴き始めた。

 僕はその声を聞くたびに、おじいちゃんと、茶色いシャツのケンちゃんと 、苔むした石段の事をふと思いだす。





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