ミルクコーヒー
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誰かと話をしながら歩いている時やなんかに、ふと会話が途切れてしまって沈黙が続くって事は 誰もが経験した事があると思う。 その瞬間はなんだかとても気まずくて嫌だという人もいるけれど、 どこかの国ではそのような時間を、「天使が通り過ぎた」と言うらしい。 やはり誰かと楽しくお喋りをしながら歩くのはとても楽しい時間だけれども、 とりたてて何もない場所を、とりたてて何も喋らずに、いわば「天使と一緒に」歩くというのも 僕は楽しい時間だと思う。
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用事もなくぶらぶらと、近くの川の土手道を歩いている時に、時々彼女と会う事があった。 「彼女」と言っても、取りたてて親しいというわけでもなく、 実際、川を散歩するときに以外に会う事はなかった。 でも、そこで会うとかなり長い時間、川沿いの道を一緒に歩いた。
そして、最近は春と秋が短いから、ある日突然に冬から夏に、 そして夏から冬になってしまう気がするから 少し寂しいなんて事だとか、 川の土手沿いに植えられているさくらの木の実は、売っているさくらんぼとは ずいぶんとかけ離れているけれども、やっぱりさくらんぼと呼ぶべきなのかとか、 耳について離れない、いつの間にか口ずさんでいる音楽の話だとか、 自分の家の向かいの家で飼っているフレンチブルドックのアズキちゃんという犬は まったくかわいいだとか、そんな話をしながら歩くのが常だった。
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そして時々、「天使が通」った。 お互いに、何も強制せずに黙々と歩くのも好きだったから、 特にその時を苦痛とは感じなかったけれど、 あまりに「天使が付きっきり」の時はどちらからともなく連想ゲームをした。 ゲームと言っても、なんの事は無い、ただ一人が何か単語を言い、 もう一人がそこから連想する言葉を 言うという、ただそれだけの事だった。けれどもそれはなんとなく、 相手の不可思議な思考回路を垣間見る事ができるような気がして、なかなか面白かった。
その日はあまりに天気がよくて、黄色い菜の花が土手にびっしりと咲いていて そこを蝶が舞っているという、とんでもなく気分のいい日だった。 空はまるで夏のようで、景色はすっかり春のもので、でも風はまだ冬の匂いが微かに残っていた。 その日は僕達はたいして歩きもせず、 土手で寝転んでいた。 最初のうちは、首筋を突つく薄緑の新しい草がチクチクして居心地が悪いのだけれど、 次第に慣れっこになってくる。 しばらくの間、僕は衣をつけすぎたエビフライみたいな形の 雲がゆっくりと流れてゆくのを見ていたけれど、 太陽の光りが眩し過ぎて目をつぶってしまった。 瞼の上にあたる日光のために、さっきまで空と雲の 色だけだった世界が、目をつぶると白っぽいオレンジになった。
そして天使が、通っていく。
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天使が通り過ぎた後の第一声は、きまっていつも間抜けな言葉だ。 「眠くなって来た」とか、「熱いお茶が飲みたい」だとか、「いい気分だ」とか。 そんな間抜けな言葉がオレンジ色の光りの下を何度か往復した後、僕は彼女に言った。
「”いい気分”っていうと、何を思い出す?」
「・・・・・・・コートのポケット。」
「コートのポケット?」
「ほら、冬に、あったかいコートのポケットに手を突っ込んで歩いていると、 いっその事、そのなかに住んでしまいたいと思う時がない?」
「・・・・あるよ、うん、ある。
でも、・・・こたつの中じゃだめなの?」
「こたつの中には、いつも猫が先にいるからだめ。」
「ふうん・・・・じゃあ、猫の”いい気分”は、こたつ。」
「あとは・・・・、風の音とか。 冬の間は、木にぶつかる風の音は、ヒョウヒョウといっていやな音だけど、春になると 葉っぱのこすれる音がだんだん混じってきて、いい気分。」
「でも、夏のほうが、いい音がしない?」
「夏は、風の音よりも、木の葉の影のほうがいい気分。
あと・・・・・あとは、ミルクコーヒー。」
「ミルクコーヒー?」
「そう。ミルクコーヒー。」
「コーヒー牛乳じゃなく?」
「うん。ミルクコーヒー。
・・・・熱いコーヒーに冷たいミルクをずいぶんと入れるから、少しぬるいんだけど、 それをソファーだとか、ベランダに座ってだとか、とにかくそれを飲む時は、そんな気分。」
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そしてまた、「天使が通る」。 彼女はきっと、家に帰ってから、 ソファーやベランダのところに座って飲む”ミルクコーヒー”のことを 考えているんだろう。
彼女が、もうそろそろ帰ろうか、という。 もうだいぶん時間も経ったみたいだった。 僕は背中についた茶色い芝を払いながら、立ちあがって伸びをする。 太陽はますます色を強くしながら、大きな橋の向こうに向かっていくところだった。
帰りの分かれ道のところまでは、お互いにたあいのない事をいろいろとを喋った。 だからもしかすると今頃の時間は、天使も家に帰る時間なのかもしれない。 そんなことを考えながら来た道を振りかえると、ミルクコーヒー色の土手道に、 長い長い影が二つ伸びていた。
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