花と、空と。


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 脱水していない濡れたタオルをベランダのハンガーにぶら下げてから家を出る。  絶え間無くぽたぽたと落ちる水滴が、 ベランダから見えるはらはらと吹き散っているさくらの花びらと重なる。  いつの間にか、淡い桃色だったさくらの枝も美しい淡い緑に覆われて始めていた。  誰も何も言わなくても、さくらの枝は花びらを落した後、きちんと葉を出すのだ。

 家を出てからしげしげとさくらの枝を見上げると、なんだってこんなに細くてぱっとしない 色の木の枝から、こんなにも 明るい色の葉が生え出てくるのか、普段あまり考えない、 ともすると当たり前と思ってしまっているような事がとても不思議に思えてくる。  クローン技術だとか遺伝子組替えだとか威張ってみても、 結局人間は生きた葉っぱ一枚創る事すらできないのだ。

 さらに歩くとさくら並木はハナミズキの並木に変わっていて、はて昨日まではこんなに たくさんの花が咲いていたっけなと思いながら僕は並木を通り抜けてデパートまで歩く。  冬の間は一週間くらい外の景色を見なくたって大して変わりはしないのに、 春になると毎日、いや、一時間ごとですらどんどん景色が変わってゆくような気がする。  時計を見ると、時間は午後の二時。  太陽が白っぽい空の真ん中から徐々にずり落ち始める時間だ。  僕はちょっと空を見上げてから、デパートの入り口の自動ドアをくぐった。

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 五階にある本屋さんで本を買ってから、エスカレーターで一階に下りる。  そこには喫茶店と旅行会社、そしてベンチのある広いロビーがある。  どこかへ旅行に行きたいものだと思いながら、旅行会社の入り口に並んでいる パンフレットの写真を眺める。  「春の北海道」、「春の金沢」、「春の九州」。  どれもとてもいい響きだ。  そして、これでもかとばかりに咲き誇る、パンフレットの 表紙に載せられた各地の花々の写真が眩しい。

 ベンチの置いてあるそのロビーの天井は吹き抜けになっている。  そしてベンチに座って見上げた遠くにある 屋根はガラス張りになっていて、そこから空が見える。  そして僕の座ったベンチの脇には、いくつかの鉢が並べられていて、 作り物の花がわざとらしくシャンと背筋を伸ばして、 ガラス張りの天井の向こうにある太陽に愛想を振り撒いている。  どこにあるのか分からないスピーカーからSHERYL CROWが、 「She plays guitar in the bathroom while the police dust her mother's plastic flowers……」と 、ロビーにいる人達に小さな声で歌ってくれている。  手を伸ばしてその偽物の花に触れると、手には少しのほこりが付いた。

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 ロビーのベンチに座ったまま、僕は空を見上げる。  何かの本で椎名誠さんが書いていた、東京の空のことをふと思い出す。

 椎名さんは八丈島から船で東京に帰ってくる時、 東京の空の下を丸くすっぽりと、なにか黒くてモヤモヤした 巨大なおわんのようなものがかぶさっているのを見たのだそうだ。  船員に聞いたら、「あれが東京のスモッグですよ」というので、「うーむ」とすこし 唸ってしまった、と言っていた。

 僕をはじめここにいる人達は、そのおわんの下のガラス張りの天井の下で のそのそと動いているのだなあ、などと思いながら、 僕はガラス越しの空を見上げ、足もとの造花に目を落とす。  すぐ隣のベンチに腰掛けている小さな女の子が、 「このお花かわいそうね。 だってお日様はあたるのに、 ここだとお水は降ってこないでしょう?」と母親に尋ねている。  母親はあまり興味なさそうに、「そうね、雨がね。」 と言いながら携帯電話を弄くっている。

 僕はもう一度空を見上げてから、ベンチを立った。

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 帰り道、八百屋で買ったキャベツの重みを手に感じながら並木を通る。  なんだかさっき通った午後二時の時よりも、街を包む春の色が濃くなった気がする。  ガラス越しではない僕の上に広がる空は、強い春の南風のせいか、うんと透き通って見えた。  そしてさくら並木越しにアパートの僕の部屋のベランダを見上げると、 すっかり乾いたタオルが風に揺れていた。







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